下野薬師寺跡
下野薬師寺跡は大正十年三月三日、「下野薬師寺跡」として国指定史跡の指定をうけました。
伽藍配置は昭和41年から六次にわたる発掘調査が行われて当時の概要が判明しています。
その規模は東西242m、南北342mであり、周囲は築地塀によって仕切られ、南から東大門、中門、金堂、講堂、が直線上に並んでいて中門と講堂を回廊が結んでいます。その金堂と講堂の間には東西に建物が配置されており、西側、戒壇堂、東側、鐘楼(らしい)がそれぞれ配置されています。東回廊の東側に東塔、西回廊の北西側には西大門が配置されていたと考えられています。
これらの威容から、隆盛期の下野薬師寺は「続日本紀」などに記される日本三戒壇の一つでした。 三戒壇とは奈良の東大寺、筑紫観世音寺、そして下野薬師寺でした。戒壇とは僧尼として守るべき戒律を授ける所で、奈良の平城京内の寺々と同様に立派な伽藍を備えていたようです。
創建された年代については諸説あるようですが、有力なのは今から1300年ほど前の7世紀末頃の天武天皇の時代という説のようです。
以上の様に立派な伽藍であったようですが、現在ではわずかに礎石と振る瓦が残っているくらいです。 この礎石は昭和六十年十二月六日に(旧)南河内町指定有形文化財となっています(下野薬師寺伽藍礎石)。 この凝灰岩製と見られる礎石は白鳳時代に盛行した形式のようです。現在所有は安国寺となっており、民家の人が東塔跡付近から掘り出したのですが、どの堂塔のかはわからなかったようです。
寺跡には本堂がありますが、これは明治38年に再建されたものです。また、六角堂という外形・柱・礎のすべてが六角形という珍しい建物が敷地内にありますが(安国寺六角堂)、これはかつで下野戒壇院跡と伝えられる場所に建てられており、近年に修繕された部分もあるが、部分的に江戸時代後期の様式をとどめています。内部中央には鑑真和尚の画を収めた厨子を安置していて、その両脇には木造の不動明王像や韋駄天像等が祭られています。
下野薬師寺は現在は安国寺と呼ばれます(真言宗智山派医王山安国寺)。安国寺は暦応2年(1339年)、足利尊氏が国分寺にならい全国に安国寺を建立したのですが、その際に下野国には既に薬師寺が存在していたので安国寺を建てるのではなく寺名を改称したと伝えられています。 当時はまだ下野薬師寺の伽藍配置が残っていたと考えられていますが、元亀元年(1570年)に北条氏政の兵火によりその大部分が焼失してしまったそうです。現在は(真言宗)安国寺の寺院として本尊を薬師如来として安置しています。
これらの威容から、隆盛期の下野薬師寺は「続日本紀」などに記される日本三戒壇の一つでした。 三戒壇とは奈良の東大寺、筑紫観世音寺、そして下野薬師寺でした。戒壇とは僧尼として守るべき戒律を授ける所で、奈良の平城京内の寺々と同様に立派な伽藍を備えていたようです。
創建された年代については諸説あるようですが、有力なのは今から1300年ほど前の7世紀末頃の天武天皇の時代という説のようです。
以上の様に立派な伽藍であったようですが、現在ではわずかに礎石と振る瓦が残っているくらいです。 この礎石は昭和六十年十二月六日に(旧)南河内町指定有形文化財となっています(下野薬師寺伽藍礎石)。 この凝灰岩製と見られる礎石は白鳳時代に盛行した形式のようです。現在所有は安国寺となっており、民家の人が東塔跡付近から掘り出したのですが、どの堂塔のかはわからなかったようです。
寺跡には本堂がありますが、これは明治38年に再建されたものです。また、六角堂という外形・柱・礎のすべてが六角形という珍しい建物が敷地内にありますが(安国寺六角堂)、これはかつで下野戒壇院跡と伝えられる場所に建てられており、近年に修繕された部分もあるが、部分的に江戸時代後期の様式をとどめています。内部中央には鑑真和尚の画を収めた厨子を安置していて、その両脇には木造の不動明王像や韋駄天像等が祭られています。
下野薬師寺は現在は安国寺と呼ばれます(真言宗智山派医王山安国寺)。安国寺は暦応2年(1339年)、足利尊氏が国分寺にならい全国に安国寺を建立したのですが、その際に下野国には既に薬師寺が存在していたので安国寺を建てるのではなく寺名を改称したと伝えられています。 当時はまだ下野薬師寺の伽藍配置が残っていたと考えられていますが、元亀元年(1570年)に北条氏政の兵火によりその大部分が焼失してしまったそうです。現在は(真言宗)安国寺の寺院として本尊を薬師如来として安置しています。
2009年 1月 2日ドキュメント作成
2009年 1月 2日ドキュメント更新